初蝉の声


 退屈な授業、抑揚のない教師の声はゆっくりと、だが確実に生徒たちを眠りの世界へといざなっていく。くわえて昼食後というもっとも昼寝に適していそうな時間帯なものだから、シャープペンシルを握りしめたままこくりこくりと船を漕ぎ出したり、机に伏せて本格的に眠り込んでしまったりと、授業を放棄している者もすくなくない。
 例に漏れず、土方もまた半分夢のなかにいた。頬杖をついて、力なく握ったシャープペンシルがノートの端に幾何学模様を描いている。
 微睡んでいる土方を、突如として現実の世界に引っ張り上げたのはだれかの、声。
「――シ、トシ」
「う、ん」
 土方が目を開けると、正面に立ちはだかる人影が見えた。顔をあげると、近藤と目が合った。いつの間にか授業は終わっていたようだ。教室を見回しても、たいそうつまらない授業を披露してくれていた教師の姿はもう、ない。
「よく寝てたなァ」
 そう言う近藤の声色に皮肉の色はなく、むしろ感嘆しているように聞こえる。自分ではほんのすこし居眠りをしていたはずだと思っていたが、実際には三十分――授業の半分以上も意識を失っていたらしい。それでもまだ寝足らないというように、土方は大きなあくびをもらした。
「なァ近藤さん、もう帰ろ」
「まだ一時間、残ってるケド」
「もうイイ」
 ここにいてもどうせ寝てるだけだと、土方は辟易したように言い放つ。
「だったらアンタとデートしてたい」
 ひっそりとつぶやくと、予想に反し、近藤が殊勝な顔をしてうなずいた。
「よし、わかった」
「え、ほんとう」
「ただし、行き先は俺が決める」
 そんなもの、近藤とふたりで出かけられるのならどこだっていいに決まってる。土方はなおざりに何度もうなずいて、開きっぱなしだったノートや教科書を閉じて学生カバンに詰め込んだ。
「で、どこ行くの」
 校門をくぐったところで、思い出したように土方は訊ねた。それに対しての近藤の答えは、いたって短いものだった。
「山」
「やま、ァ?」
 またもや予想だにしていなかった答えが返ってきて、土方は素っ頓狂な声をあげた。たとえばゲームセンターやイタメシ屋だったり、自宅とかホテルとかでもいい。そんなところを想像していたものだから、思わず近藤に疑り深いまなざしを向けてしまう。
「……なに、山って」
 つぶやいて、ふと思う。まったく近藤さんは、と無意識に頬を緩ませる。
(外でやりたいのなら、別にンなとこまで行かなくても)
 近藤が、大胆にも外でいたしたいというのなら土方も止めやしない。むしろ、乗り気である。
「わかった近藤さん、アンタがそこまで言うなら俺もがんばるからな」
 にんまりと笑む。だが、次に放たれた近藤の言葉に土方は己の早とちりに気づかされることになった。
「そっか、それじゃどっちが多く蝉をとれるか、競争しような!」
「……せみ?」
 呆気にとられた土方は、それまで足早だった歩みをぴたりと止めた。
「そう、さっき、授業中に蝉の声が聞こえてさ、急に蝉を捕まえたくなった!」
 トシ、おまえは聞こえなかったかと訊ねられても、土方は力なくかぶりを振ることしかできない。チャイムが鳴って授業が終わったことすら気づかないほど深く深く眠っていたのだから、外にいる蝉の声など聞こえるはずがない。土方が目覚めたのは近藤に呼びかけられたからだ。
 それじゃあ行こうか、と破顔する近藤のあとにとぼとぼとついて行く。肩を落とす土方の耳に、励ますかのようにじりじりと鳴く蝉の声が聞こえた気がした。


20070913