屯所に帰ったころにはすっかり日が暮れていた。
さっき別れた隊士はすでに帰邸していて、俺と近藤さんの姿を見るなりあわてたふうに駆け寄ってきた。
水を頼むと告げてまっすぐ局長室に引っこんだ。
ごろりと畳の上に酔っ払いを転がして、俺も尻餅をつく。ああ疲れた。こんなでかい図体ここまで運んできたんだからしょうがない。
肩をまわしていると障子の向こうから「持ってきました、水」と声がかかったので、そこに置いておけとぞんざいに答える。
ばたばたと遠ざかる足音を聞き置いてからのっそりと腰を持ち上げ四つん這いになって障子を開ける。
板張りの廊下にふたつのグラスがぽつんと置いてあった。
水滴のついたそれをつかんだときにふと視線を感じてそちらに目をやると、さっきのやつがこちらを心配そうに見ていたから睨みつけて牽制する。
逃げるみたいに背を向けて姿を消すのを確認してから、ひとつのグラスに口をつけ、一気に喉に流し込む。
空っぽになったそれを板の上に戻して、もう片方のグラスを手に障子をぴしゃりと閉めきった。
「近藤さん、水」
近藤さんは寝返りを打ち、俺に背を向けて丸まった。近藤さん、少しくらい飲んだほうが。あとで飲む、そこに置いておけ。
背中と声が俺を拒絶していた。なんだよ、俺がどんだけ苦労してここまで運んできてやったと思ってんだ。
「どうせ女に振られたんだろ」
冷水ですっかり冷えた舌でくちびるを舐める。それで気づいた、俺は笑っている。
「くだらねェ、いつものことじゃねえか」
近藤さんの肩がわずかに上下した。俺がかたわらにグラスを置くのと近藤さんが跳ね起きたのは同時だった。
「いいから出て行け」
さっき飲んだ水が胃のなかでぐるぐると暴れだす。たかが水なのに、ひどく気持ちが悪くなった。
逆流しそうだ。一気飲みなんてしなければよかったんだ。俺はいつも後悔ばかりする。
近藤さんの顔は真っ赤で眼球も血走っていた。それで俺を拒絶するんだ。いつもはやさしく俺に笑いかけてくれるアンタといまこうして俺を拒否するアンタとどっちが本当のアンタなの。
俺はいつもそれで悩んで、結局答えなんか出るわけがないとわかっているのに考えてしまうのはもう、癖みたいになってしまっているんだろうけど。
「もうやめちまえよ。アンタ惚れっぽいんだから、いちいち傷ついてたらからだもたねえだろ。なァ、どうせまた三日もたたずにほかの女のケツ追っかけるようになるんじゃねえの」
俺の笑い声は瞬時にかき消された。代わりにぐぅ、と喉の奥で情けない悲鳴が漏れる。俺は近藤さんに押し倒されていた。
近藤さんの両手に押さえつけられた俺の両手首は血流が止まってしまったかのようにジンと甘い痺れが走る。
さっき近藤さんを運んでいたときに近藤さんの腕をつかんでいたときよりもはるかに強い力だなと、この状況下でまったく関係のないことが頭に浮かぶ。
近藤さんはあいかわらず血走った目で俺を見下ろしていた。なアこれからどうすんの。
畳に打ちつけた後頭部が痛いことにいまさら気がついた。俺はまっすぐ近藤さんを見返した。目が合う。三十センチにも満たない至近距離だ。
酒の匂いが鼻をつく。アンタ飲みすぎだよ。笑おうとして失敗した。酒の匂いがいっそう強くなって息ができなくなった。
それはけっして誇大な言い方ではなく、実際に俺のくちびるはアルコールに浸ったみたいなくちびるに塞がれていたのだった。
「……悪かった」
近藤さんはそう言い残して部屋を出た。ぴしゃりと襖の閉まる音がして、それはやっぱり俺を拒絶しているようにしか聞こえなかった。
あれ局長、もう大丈夫なんですか。ああ、心配かけたな。本当に、大丈夫、ですか。そんなに心配だったら一緒に厠ついていってくれる、結構足腰きてるみてえなの。はい、遠慮なくつかまってください。
近藤さんと隊士の妙に明るい声が耳に障った。なんだよ、足腰立たないのは俺のほうだってのに。
たかが酔っ払いのキス、にこんなザマだ。俺は仰向けになったまま両腕を顔の上で交差させた。
ぐわんぐわんと頭が割れるように痛い。酒なんて一滴も入ってねえのに。ああ、もしかしたらさっきのアレで少し伝染したのかもしれない。
「畜生、痛え……」
最後の近藤さんの言葉が頭のなかをぐるぐるとまわる。謝るな謝るな謝るな! 謝罪の言葉なんざ聞きたくなかった。虚しくなるだけじゃねえか。
無駄な行動とは思いつつ両手で耳を塞ぐ。それでもあのひとの声は俺の鼓膜に張りついていてけっして消えることはないのだ。