見逃すな、それは罠


「なァトシ、前髪伸びてきたけど邪魔じゃねえの?」
 ふいに伸びてきた手が土方の前髪をさらりと撫でた。筋張ったその指は、見かけにそぐわずやさしい仕草で髪の毛を揺らしていく。
 土方は思わず目を瞠り、すぐに視線を畳のうえへと落とした。
「別に……」
 さり気なく身を引いて、その無粋な手から逃れる。だが、ふれられた感触は未練がましく離れてくれない。
 くしゃくしゃと己の手で前髪をかき混ぜ、内心の狼狽を静まらせていると、その行為を一瞬で無にしてしまうほど近くまで、ずいと近藤が顔を寄せてきた。
「俺が切ってやろうか?」
「……アンタが?」
 跳ねた鼓動を気づかせぬよう、ふたたび近藤から離れるべく後ずさりしながら、土方は不審なまなざしを近藤にぶつけた。
「なに、急に」
「いや、トシが困ってるみたいだから」
「俺は困ってるなんて一言も言ってねェ」
 秀麗な面がしかめられ、反論した。
 前髪を伸ばしていれば、視界が妨げられ彼を直視しないですむ。土方が前髪を切らない理由はその一点にあった。
 ――近藤が視界にいると駄目なのだ、土方は。彼を、“そういう”目で見つめてしまうだろう自分が、怖い。そして、それを自覚していながらやめることのできない己も――。
 ほんのすこし、前髪を伸ばしているだけだ。だが、そのわずかな視界の翳りが土方に逃げ道をつくってくれていたのだ。
 それを「切る」だなんて。ましてや近藤が切るとなると、先刻の刹那よりも長いあいだ彼にふれられていなければならない。……はたしてその、たった数分のあいだだけでも自分は耐えうるだろうか。
 黙りこむ土方の顔を窺い、近藤がぽつりとつぶやく。
「俺、一度でイイからひとの髪切ってみたかったンだよなァ」
 それなら俺じゃないだれかに頼めばいい。告いでてしまいそうになった台詞を土方はのみこんだ。
 それも……イヤだ。
 いまここで自分が断ってしまえば、ほかのだれかに頼みにいくのだろうか。うつむいた土方は思案を巡らせた。たとえば総悟の野郎とか。でもアイツはのらりくらりとかわしそうだな。山崎だったら、ていのイイ実験体にでもなってくれそうだ……。
 知らずのうちに、土方の表情は深刻なものになっていたらしい。まさかそこまで考えこまれるとは思っていなかった近藤が、苦笑しながら「冗談に決まってるだろう」と言い出すより先に、みずから答えを出した土方は半分黒髪に隠れた双眸を近藤へとむけた。
「……責任、とってくれるンなら」
 よもや断られるだろうと思いこんでいたのだろう、近藤が虚をつかれたように目を見開いた。だがすぐに立ち直って、
「あっはは、失敗したらカツラでも買ってこいって?」
「……ばか」
 土方が細くため息を吐き出すと、不意に笑うのをやめた近藤はそれまでとは一変して真剣な面持ちを浮かべた。
「だいじょうぶ、俺がちゃんと責任とるから」
 鋏を取ってくると席を立った近藤の背中をぼんやり見送りながら、ならばどうやって失敗させたらいいだろうかと土方は愚案にくれた。


20071104