引き金を引いたのは


 ふたたび不眠の日々が訪れた。睡眠薬はあれ以来――近藤さんの前で薬を無様にぶちまけてからは引き出しの奥で鳴りを潜めていた。
 飲みたくても飲めない状況に陥っているのだった。いらないと言っているのに、近藤さんが毎晩のように俺の部屋に来てほんとうに子守唄を歌っていくようになったのだ。
 そんなことをされて眠れるわけがない。子守唄とは本来子どもを寝かしつけるための歌だが、近藤さんが歌うと逆効果だと思う。すくなくとも俺にはこれっぽっちも効きやしない。眠るのがもったいなくて、すこし音程の外れた調子で歌っていようがずっと聴いていたくて耳を澄ましてしまっているのだから。
 それでも眠らないわけにはいかなかった。眠ったふりをしなければならない。やわらかい声で呼びかけられても返事はしなかった。目をつむって、すやすやと眠っているように見せる。狸寝入りだ。ばれているかどうか、わからなかった。それでも近藤さんはなにも言ってこないので、やっぱり俺が眠っていると信じているのだろう。そう思いたい。
 その日も近藤さんは部屋にやって来て、俺が横たわる布団のかたわらに腰を下ろした。そのとき俺は決まって近藤さんに背を向ける。正面切って眠るなんざ、到底できたモンじゃない。それがたとえ空眠りだったとしても。
「アンタもこんなことしてねェでさっさと寝ちまえばいいのに」
 いつも言っているのだが近藤さんは聞く耳を持たない。「俺のことは気にするな」と言って笑うが、気になるのは俺のほうだし、最近薬を使って眠れるようになったのにアンタが来ているおかげで一睡もできねェんだよ。なんて言えるわけがないが。
 ほんとうに厭であれば追い出すことだってできた。そこまでされて近藤さんも子守唄を歌おうなんて考えないだろう。それをしなかったのは俺だ。
 近藤さんの“子守唄”を聴きながら俺は眠った。正しくは、眠るふりをした。目をつむって、不自然にならないよう静かに呼吸をする。やがて近藤さんの歌声がやんで、ちいさな声で俺の名を呼ぶ。俺は答えない。眠ったのか、とひとりごちているのが聞こえてきた。近藤さんはいつも俺が眠ったのを確認すると部屋に戻るのだ。俺はほっとした。これでひとりになれる。安心した。
 それなのに、今日に限って近藤さんはその場から立ち去ろうとはしなかった。背中に視線を感じる。座りこんだまま、立ちあがる気配が感じられない。どうしたんだろう。俺の心臓はどくりどくりと早鐘を打ちはじめた。気分が悪くなってくる。吐いてしまいそうだ。布団から飛び出た拳が異様に冷たくなっているように思えた。むしろ感覚が失せていた。わずかに指を動かそうとしたが、ぎしりと軋む音が響いてしまいそうでやめた。
 静寂のなか、ふいに背後で空気が揺れた。俺は驚きのあまり身を硬くした。だが、これで近藤さんは帰るのだろうと悟って胸を撫で下ろした。
 そのときだった。
 俺の冷え切った手のひらが温かいぬくもりに包まれた。突然の出来事にあやうく瞼を開けそうになったがかろうじて押しとどまった。俺は混乱した。この温かさは人肌である。そして、いまこの部屋にいるのは俺のほかにただひとり――。
 近藤さんはしばらく俺の指をつまんだり自分の指と絡ませてきたりとよくわからない行動をしたあと、最後に俺の頭をくしゃりと撫でて去って行った。
 襖が開いて、閉じられた。
 耳をそばだて、足音が聞こえなくなると飛び起きた。それまで呼吸をするのも忘れていたからか、頭ががんがんと響いて痛かった。あわてて机へ向かい、乱暴に引き出しを開けて薬瓶を取り出した。蓋を開けて規定数以上の粒を口のなかに放りこむ。久々に飲んだからかなかなか喉に通らず無理やり嚥下した。熱く震えた手のひらから錠剤がいくつも畳のうえに落ちたのも気づかない。
 何も考えずに眠りたかった。どろどろに脳みそが融けて余計なことなど考えなくてすむように、真っ暗な夢のなかに堕ちてしまいたかった。


20070917