近藤が死んだその日、幽冥に沈む屯所のなかでひと滴の涙も見せなかったのは、土方ただひとりだけであった。
一.
その足音は耳に馴染みのあるものだった。
それだからはじめなんの違和感もなく聞いていた土方だったが、そのわずかに乱雑な足音が近づいてくるなり肝を冷やし、はっと身体を起こした。
足音は、部屋の前で止まった。板敷きが軋みあう音はいまだ鼓膜に張りついて消えない。
おそるおそる障子を見やると、ぼんやりと黒い影が映っている。
定かではないが、それはやはり、見覚えのある人影だった。だがその姿はけっしてありえない姿でもあった。
「トシ」
静寂を破る低音に、土方の身体がわずかに跳ね上がった。
「起きてるか」
問いかけに応えようとしたけれど、喉に痰が絡まったみたいに声が出なかった。
胸にわきおこるのは不審と恐怖――いや、期待すら混じっていたのかもしれない。うっすらと……、だが確実に。
返事は不要だった。
すぐに音もなく障子が開き、男の姿が露見したからだ。月明かりを背後に、だがその姿を土方が見間違えるわけがなかった。
「よかった、起きてた」
「近藤、さん」
安堵の息を吐き出し、微かに笑むのは近藤だ。
土方の鼓動は速まり、息苦しくなる。身動きできなかった。
「トシ」
「……アンタ、どうしたんだよ」
かろうじて、言葉を発する。無様なことに声が震えていたが、この場でそれを揶揄う人間なんぞいなかった。
「俺、ひとを斬ってきたんだ」
一歩部屋の内へ入った近藤は、後ろ手に障子を閉め、土方へと近づいてくる。
「血が、落ちないんだ」
手のひらをじっと見下ろす。その双眸は光をなくし、陰をまとっていた。
「洗っても洗っても、落ちねえんだ」
傍らに膝をつく近藤の手を、土方は黙って握りこんだ。大きくて硬い手のひらだ。むろん血などついてはいない。
「近藤、さん」
己のそれよりもだいぶ体温の低い近藤の手に、さも大事そうに、恭しく接吻ける。
「おれ、アンタの手ェ好きだよ。アンタに触れられると、おれすごく安心するんだ」
うつむく近藤の頭を両手でかき抱き、ちいさく囁く。
「おれはアンタが好きなんだ。どんなアンタでも、たとえアンタが……」
近藤の腕が、土方の腰にまわされた。土方は、ぎゅっと固く目を瞑った。
「な、んでアンタのからだこんなに冷たいの……ッ」
二.
「トシ、おまえ酒飲みすぎなんじゃねーか」
くちびるが離れるなり、近藤が苦笑混じりにこぼした。土方は、息切れ切れになりながら、口許に手をやりそうっと吐息した。
確かに、酒臭いかもしれない。近藤に指摘され、はじめて気づいたけれども。
「……気になる?」
「ってか、心配」
「しんぱい」
土方は目を眇めた。
「だったらアンタがおれから離れなきゃいーじゃん。なあ近藤さん、ずっとおれのそばにいてよ。だっておれアンタがいないと」
闇雲に紡いでいた言葉は不意に途切れる。震える声は、いまにも泣き出してしまいそうだった。
近藤にくちびるで遮られていなければ、とうに泣きじゃくっていただろう。
近藤の熱がゆっくり中へ押し込まれていく。その温度に悲鳴をあげそうになるのを堪えて、土方は奥歯をかみ締めながら、冷えきった近藤の身体にしがみついた。
四.
土方は今夜も近藤を待ち続ける。布団のなかで身を縮め、耳を澄まして近藤を待ちわびる。
(はやく、はやくはやくはやく……)
土方は毎晩近藤を呼び寄せる。ずっとそばにいてと懇願したので、近藤も土方から離れられないのである。
だが、それははたして土方だけの願いだったのだろうか。
障子が開いて土方の目の前に男が現れる。土方は微笑し彼へと手を伸ばす。
触れあう冷たさはもう土方にはなんの障害にもならないのだ。
強く手を握りしめるほかに土方ができることといったら、真実を闇へと葬り去ることだけだった。