死と孤独/彷徨う屍体/あるひとつの死姦の物語


紅い空に浮かぶ微笑


三.
 もうじき夜が明ける。東の空は徐々に白み渡り、それまで空を覆いつくしていた暗闇は地平線の彼方へと追いやられていた。
 呼吸をするたびに冷え冷えとした冬の朝の空気が肺へと送り込まれるので、これは目を覚ますのに好都合だと、土方は起き上がりもせず布団のなかでじっと横臥していた。
 にわかに感じる頭痛は昨夜から引き続いており、一向に治る気配はない。こめかみを刺激する鈍痛に、奥歯をかみしめてせめてもの抵抗を垣間見せる。 むろんそれはまったくの無意味な行動でしかなかったけれど、そうやっていれば、すこしでも気がまぎれるようだったのだ。
 飲みすぎたと、自覚はしている。一升瓶片手に酒を呷る己を、しかし部下たちは顔を見合わせながらも止めようとはしなかった。
 複雑な表情を浮かべる彼らに、言いようの知れない曇った感情が腹のうちでふつふつと積もっていく。
 おまえらに何がわかるっていうんだ。
 喚きたくなる衝動を必死で抑えた。もしくは酔いに任せてがなりたててしまったかもしれなかったけれど、それは思い返してみても土方には覚えがなかった。
 記憶の片隅に追いやっているのかもしれない。たいてい人間の思考とは都合よくできているものなので。
 おまえらに何がわかるっていうんだ。
 土方はつぶやき、かすかな自嘲を浮かべた。他人に己の心情を理解できるわけがない。
「だっておれはあのひとを」
 あのひとを……。
 土方は、ひっそりと小首をかしげた。
(あのひと……?)
 頭のなかが、霞がかかったように判然としない。役に立つと思っていた冷気は、もう煩わしいものでしかなかった。
 生じる違和感に、肘をついて上肢を起こす。腹に力をこめた際、下腹部が痛んでわずかに呻く。
(なんで)
 掛け布団をめくり、暗がりを覗きこんでみる。尻を置いたあたりのシーツが、なぜだか湿っているように感じた。 不審に思っておそるおそる手を伸ばしてみると、粘り気のある冷たいものが指先に触れた。 続いて足の付け根、そして奥の窄まりにまで進ませると、さらに粘液の量が多くなった。
 いつの間にか土方の四肢は小刻みに震えていた。眦に浮かんだ滴が頬を伝いシーツに滑り落ちていく。
「う、あ、あ……」
 頭痛はもう微塵も感じなかった。それよりも、息苦しい。息ができない。
(おれから近藤さんをうばわないで)
 土方の感情はいまや暴落の一途を辿る。

 近藤が死んだその日、幽冥に沈む屯所のなかでひと滴の涙も見せなかったのは、土方ただひとりだけであった。



一.
 その足音は耳に馴染みのあるものだった。 それだからはじめなんの違和感もなく聞いていた土方だったが、そのわずかに乱雑な足音が近づいてくるなり肝を冷やし、はっと身体を起こした。
 足音は、部屋の前で止まった。板敷きが軋みあう音はいまだ鼓膜に張りついて消えない。 おそるおそる障子を見やると、ぼんやりと黒い影が映っている。 定かではないが、それはやはり、見覚えのある人影だった。だがその姿はけっしてありえない姿でもあった。
「トシ」
 静寂を破る低音に、土方の身体がわずかに跳ね上がった。
「起きてるか」
 問いかけに応えようとしたけれど、喉に痰が絡まったみたいに声が出なかった。 胸にわきおこるのは不審と恐怖――いや、期待すら混じっていたのかもしれない。うっすらと……、だが確実に。
 返事は不要だった。
 すぐに音もなく障子が開き、男の姿が露見したからだ。月明かりを背後に、だがその姿を土方が見間違えるわけがなかった。
「よかった、起きてた」
「近藤、さん」
 安堵の息を吐き出し、微かに笑むのは近藤だ。
 土方の鼓動は速まり、息苦しくなる。身動きできなかった。
「トシ」
「……アンタ、どうしたんだよ」
 かろうじて、言葉を発する。無様なことに声が震えていたが、この場でそれを揶揄う人間なんぞいなかった。
「俺、ひとを斬ってきたんだ」
 一歩部屋の内へ入った近藤は、後ろ手に障子を閉め、土方へと近づいてくる。
「血が、落ちないんだ」
 手のひらをじっと見下ろす。その双眸は光をなくし、陰をまとっていた。
「洗っても洗っても、落ちねえんだ」
 傍らに膝をつく近藤の手を、土方は黙って握りこんだ。大きくて硬い手のひらだ。むろん血などついてはいない。
「近藤、さん」
 己のそれよりもだいぶ体温の低い近藤の手に、さも大事そうに、恭しく接吻ける。
「おれ、アンタの手ェ好きだよ。アンタに触れられると、おれすごく安心するんだ」
 うつむく近藤の頭を両手でかき抱き、ちいさく囁く。
「おれはアンタが好きなんだ。どんなアンタでも、たとえアンタが……」
 近藤の腕が、土方の腰にまわされた。土方は、ぎゅっと固く目を瞑った。
「な、んでアンタのからだこんなに冷たいの……ッ」



二.
「トシ、おまえ酒飲みすぎなんじゃねーか」
 くちびるが離れるなり、近藤が苦笑混じりにこぼした。土方は、息切れ切れになりながら、口許に手をやりそうっと吐息した。 確かに、酒臭いかもしれない。近藤に指摘され、はじめて気づいたけれども。
「……気になる?」
「ってか、心配」
「しんぱい」
 土方は目を眇めた。
「だったらアンタがおれから離れなきゃいーじゃん。なあ近藤さん、ずっとおれのそばにいてよ。だっておれアンタがいないと」
 闇雲に紡いでいた言葉は不意に途切れる。震える声は、いまにも泣き出してしまいそうだった。
 近藤にくちびるで遮られていなければ、とうに泣きじゃくっていただろう。
 近藤の熱がゆっくり中へ押し込まれていく。その温度に悲鳴をあげそうになるのを堪えて、土方は奥歯をかみ締めながら、冷えきった近藤の身体にしがみついた。



四.
 土方は今夜も近藤を待ち続ける。布団のなかで身を縮め、耳を澄まして近藤を待ちわびる。
(はやく、はやくはやくはやく……)
 土方は毎晩近藤を呼び寄せる。ずっとそばにいてと懇願したので、近藤も土方から離れられないのである。
 だが、それははたして土方だけの願いだったのだろうか。
 障子が開いて土方の目の前に男が現れる。土方は微笑し彼へと手を伸ばす。 触れあう冷たさはもう土方にはなんの障害にもならないのだ。
 強く手を握りしめるほかに土方ができることといったら、真実を闇へと葬り去ることだけだった。


そして幻の渦に取り残されるのは誰だ。

20070206