やさしい断末魔


 重厚な扉を押し開くと、耳障りな甲高い音が鳴り響いた。 薄暗いその室内、照明器具ははかなく揺れる蝋燭の光のみだった。
 一歩なかへ踏み出すと、にわかに血と黴の混じった匂いが鼻をつく。 土方は忌々しそうに舌打ちし、部屋の中央へと歩みを進めた。そこには男がひとりいた。 件の婦女暴行事件の犯人である。
 二十代半ばだというその男は、頬にニキビをこしらえてはいたが特に醜悪でもなく、どこにでもいるようなごく一般的な若者に見えた。 普通でないのは天井から吊る下がった鎖に繋がれている点だろう。彼の両手は頭上でひと括りに拘束されていた。
 土方が冷たく見据えると、その男はぶるりと不自由なからだを震わせた。鬼の副長と呼ばれる土方を知っているのだろう。 彼が好んで刀を振るうことは江戸内でも周知の事実であった。
 土方は男の見せた怯えの表情に満足気に笑んだ。 その目は決して笑っていないし、彼の身にまとうオーラはひどく冷ややかなものだったので、男をいっそう怯えさせるのに充分なものであった。
 小刻みに震える若者の前で土方は立ち止まった。ぼろをまとったそのからだの下には生傷が多く見える。 犯人を見つけたらなるべく傷をつけずに捕まえろと前もって部下に告げていたので、これでも必要最低限の処置だったのだろう。
 隊士に指示を与える土方の隣にいた近藤は、土方に同意するようにおおきくうなずいていたが、土方の意図は別にあった。 つまり近藤は無意味にひとを傷つけるなという意味で捉えたのだろうが――たとえそいつが婦女暴行の犯人であったとしてもだ――、土方はそんな生ぬるい情けをかけるような性分では決してなかった。
「まァ、あのひとと一緒に行動、できたことには感謝するぜ」
 あの夜の出来事を思い出し、土方はうっそりと目を細めた。
 深夜のデートはなかなか楽しめた。最近では些細な事件が重なり、あのひとと睦ましく過ごす時間を取れることはほとんどなかった。 いい加減ふたりきりになりたいと思っていたのだ。
 くちびるを重ねたのだって無論久方ぶりであった。あのひとにああして触れたのも、あのひとの胸元にそうっと顔をうずめたのも、まるで夢のようなひとときだったと土方は思い出して胸が熱くなるのを感じた。
「……ただ、タイミングが悪かったよなァ」
 もうちょっと……あと少しだけでもあのままでいたかったのに。
 ――あのひとの気を逸らした人間が、憎い。
 土方はくちびるをひと舐めし、至極なめらかな動作で腰に帯びた刀に手を掛けた。そのいっそ優美な姿に男の顔が引きつる。 喉から絞り出すようなうなり声を上げているが、なんと言っているのか聞き取ることは難しい。
 男にとって一番の不運は、局長の近藤がいま屯所を不在にしていることだろう。
 いつも土方をやさしく包み込んでくれる近藤に、出張に行くよう仕向けたのは他でもない土方だ。
 すなわち、いま現在、この場での土方の枷は一切ないのである。
 土方は音もなく刀を抜いた。
「さっさと消えちまえ」
 振りかざした刀は一瞬だけ、血生臭い空気を切り裂いた。蝋燭の心許ない明かりは、ひとりの影を真っ赤に映していた。

(殺してください)
20060717