かみあう


 海に行きたいなあ、というつぶやきが、眠りに落ちかけていた俺の聴覚を奪って、どろどろとした安寧の意識のなかから抜けだす羽目になった。あお向けになったままこじ開けたまぶたを数度瞬かせ、うす暗い部屋をぐるりと見回してから、俺は声のしたほうへと視線を落とした。
 近藤さんはうつ伏せになって頬杖をつき、静かでやわらかな雨が降ってくる空を眺めているようだった。顔が見えないからかわりに見つめたむきだしの肩が、腕が、汗にぬれててらてらと光っていることに俺は気がついた。その瞬間、それにふれたくなって、なめて、むさぼりついてしまいたくなったが、その衝動がひどく恥ずかしいもののように思えて、結局実行に移すことはなかった。逡巡した指先が、自分の下腹部をかすって、乾いた音をたてた。先ほどまで腹のうえでぬるぬるとぬめっていたそれは、乱暴に拭きとったせいで汗と混じりあい、もうすっかり乾いていたのだった。
「梅雨が明けたら、行こうか」
 唐突に振り向いた近藤さんが笑って言う。俺は、むけられた笑顔に無条件にうなずきかえしそうになって、あわててとめた。
「どこ、に」
「だから、海だよ」
「ああ、海、ね」
 まったく別のことを考えていたことを知らせたくなくて、天井を睨みつけながら淡々とこたえた。
 どうせ海といっても、大勢で行くのだろう。毎年恒例といっていい、真選組の行事であった。やれスイカ割りだ、やれビーチバレーだとか、いいおとなが騒ぐほどのものでもないと思うが、ふだんの張りつめた勤務を忘れて思いきり羽を伸ばすいい機会であることは確かだった。
 だから近藤さんが今年もとそのことについて話しているのにちがいなく、俺はといえば一瞬でもデートに誘われたのだと思った自分を恥じて、そして、とたんに海への興味をそがれてしまっていた。
「そうだな」
 俺は気のない返事をして、ついでにあくびをした。
「なんだ、あんまり行きたくなさそうだな」
「べつに、そんなわけじゃねえよ」
 若干低くなった声に、つい拗ねた口調でかえしてしまったほど、俺は期待をしていなかったはずだった。無意識のうちに、かさついた腹に爪をたててこすっていた。はがれ落ちたものが指先にまとわりついては、払って落とした。
「じゃあ、みんなでなら、行くか」
「だから、みんなで行くんだろ。それにいつものことだから、いちいち俺に訊かなくてもいいし」
 俺は腹の皮膚にこびりついた自分の汚れを落とすのに夢中になっていたので、会話がかみあっていないことにすぐには気づかなかった。黙りこんだ近藤さんを不審に思って視線をもどすと、近藤さんはすこしだけ口を開いたまま俺をまじまじと見つめていた。
 俺も近藤さんを見つめたまま、わけがわからない状態でいましがたの会話をリフレインして、そして。
「え」
 俺が素っ頓狂な声をだしたのと、近藤さんがふたたび笑顔になったのは同時だった。
「梅雨が明けたら、海に、行こうか。……ふたりで」
 説明じみた口調に、おもわず笑みがこぼれた。先ほど諦めた腕にふれようと、のばした手首を逆につかまれ、乾いた腹に湿ったくちびるを押しつけられた。ふたたびぬめってくる感触に、俺は返事をするかわりに、くん、と喉の奥を鳴らした。

20090719