西の空が茜色でぬりつぶされていた。穏やかな川面に、ひしゃげた夕陽がかろうじて映りこんでいる。
土方はその光景に見入っていた。魅入られたわけではない。怖ろしかったのだ。鮮血のような赤色はまるで世界の終わりを告げているかのように見えた。
うつむいた土方は、つまらないことを考えるおのれに自嘲した。最近、やたら神経過敏になっているのは自覚していた。
そのとき土方は、確かに予感していたのだ。
土方の通う、くだんの店のある裏通りで一斉検挙がおこなわれるのも時間の問題だった。すでに土方ひとりの手に負える事態ではなくなっていた。裏取引の噂は江戸じゅうに広まっており、じきに幕府から直接調査の命が下されることになるだろう。
あの店にも捜査の手がのびる。奥の部屋が見つかれば、大変な騒ぎになるのは目に見えている。
そうなればもう二度と――。
土方は歩みをとめ、前方を歩く男の背中を見つめた。
――会えなくなる。
考えた瞬間、ぞっとした。かつて経験したあの惨劇、恐怖と悲壮、喪失感を思い出して身震いした。
「どうした、トシ」
近藤が、振りかえる。なんでもない、とかぶりを振ってふたたび歩き出す土方の横を、きゃらきゃらと笑い声をあげながら少年が数人駆け抜けていった。
「元気だなァ」
となりに並んだ近藤がしみじみといったふうにつぶやくのを聞いて、土方はくつりと笑った。
「アンタだって、昔はあんな感じだったんだろう」
意識した発言ではなかった。だから、近藤の次のせりふにハッとした。
「そうだったのかな」
「そう、に決まってるだろ」
思わず声を荒げてしまった。
もっとはやく出会っていたかった。そうすれば「そうだったんだよ」と断言できたのに。
もし、なんていう言葉は幻想にすぎない。だけど祈ってしまう。
あのとき、なにがなんでも、自分の身を挺して彼を護っていればよかったのに――。
ゆっくり歩いていた近藤が河原を見下ろせる芝のうえにしゃがみこんだので、土方もそれにならった。
「花が咲いてる」
そう言って近藤は足もとの花をつまんで折ると、こちらに寄越してきた。
「トシにプレゼント」
「俺に?」
「うん」
一輪の花。なまえも知らない。
「高価なプレゼント、サンキュ」
「おう、俺の気持ちがたっぷりこもっているからな」
平然と言われてなんだかくすぐったかったが、ありがとうとつぶやいて受け取った。手持ち無沙汰のような気がして、指先で持った花をくるくるとまわす。
「……なあトシ」
呼ばれて振り向けば、近藤はなにやら思いつめた表情をしていた。瞬時に土方は悟った。聞いてはならないと頭のなかで警報が鳴り響く。だから、近藤が先をつづけるまえに口を開いた。
「近藤さん、今度は」
「トシ」
「今度はどこ行こうか。アンタどっか行きたいとこある、どうせだったらうんと遠くに」
トシ、となにごとにも揺るがない低い声が、土方の口をつぐませた。
「トシ、おまえと会うのは今日が最後だ」
聞きたくないのに。耳をふさいでしまいたいのに、近藤のまっすぐなまなざしがそれを許してくれない。
「もうあの店には来るな」
近藤もあの噂を知っている。土方はその話題にはけっしてふれなかったから、きっと店主が告げたのだろう。よけいなことを。
「近藤さん、アンタは心配する必要なんてねえよ。俺がなんとかしてあの店だけは」
震えた手で近藤にすがった。
そうだ、店主に移転してくれとかけ合えばいい。そうすれば多少遠くなって足を運ぶ回数がへったとしても、近藤には会いに行ける。それが無理なら、近藤が縛られているあの装置ごと買い取ってもいい。
もう離れたくなかった。
あんな思いをするのはもう二度とごめんだった。
それなのに近藤は、そんなわがまますらきいてくれない。
「アンタはまた俺をおいていくのか」
土方の両目から流れる涙を隠すよう、近藤の手のひらがやさしくまぶたを覆った。
「アンタを二度失いたくない」
懇願するくちびるに、つめたいものがふれた。それは本来あたたかいものでなくてはならないはずなのに。かつてふれたことのある、記憶に残るぬくもりは失われていた。
このままでは忘れてしまう。忘れたくなんかないのに、人間の記憶はあまりに脆弱で頼りない。忘れてしまうのが怖い。忘れたくない。
「――どんなかたちでもいいんだ。俺は、アンタがいてくれたら、アンタがいてくれるだけで……」
ちっとも温度を感じさせないその感触が、土方にはもどかしく、ひどくつらくて、もう二度ととりもどすことはできないのだといまさらながらに気づかされて、ともすれば叫びだしそうになるのを必死にこらえながらも、頬を濡らすのをとめられなかった。
*
かぶき町三丁目裏通りで悪事に手を染めていた一味は真選組の活躍により壊滅状態にいたったが、それとほぼ同時期に真選組副長・土方十四郎のすがたが江戸の町から消えてしまった。
混乱に乗じて殺されたのか、もしくは彼の意思で行方をくらましたのか、さまざまな憶測が飛び交ったが真相を知る者はいなかった。
ただひとりを除いて。
*
一見したところ、なんの変哲もない店である。がらくたばかりが並んだ骨董品屋の店の奥に、いまはもう開けられることのない部屋がある。
ひんやりとしたその薄暗い部屋に横たわるのは二つの人影と、そばには一輪の枯れた花。
近藤さん近藤さん。俺たちはこれからもうずーっと一緒にいられるんだ。近藤さん近藤さん……。
…………。
……。