愛しむべきひとよ
風の音が煩わしい。
ごうごうとうなる風は容赦なく引き戸に吹き付け、そのたびにがたりと木戸の揺れる音が静かな廊下に響いた。
湿り気を帯びた強風にねっとりと皮膚を撫でられ、土方は不快感に柳眉を寄せた。
まるで時期外れの台風のようだ。
この喧しさに敵わず、安眠を貪ることを諦めた土方は炊事場へと赴いた。酒を取り出し、グラスになみなみと注ぐ。
もうすぐ日の変わる頃だと現在の時刻を確認して、小さく息を吐く。
胸のうちに広がるしめやかな興奮は、心を乱すほどの荒々しい風のせいだろうか。
身の置き所のない不安に駆られることは、少なくなかった。こうした夜は、なおさらひどい。
(……馬鹿馬鹿しい、いい大人が)
自嘲してみても、正体のわからぬ不安が消え去ることはなく、ただの気休めで終わってしまうことは土方自身重々承知していた。
胸に居座る黒い霧を些少でも霧散すべく、酒を呷った。ごくりと音を立てて嚥下して、口の端からわずかに零れた液体を手の甲で乱暴に拭う。
四角く縁取られた窓から覗く青白い月は、常よりも速く移動する雲によって濃い陰影を描き出していた。
その光を享受する土方の面もまた青白く、さながらサナトリウムに捕らえられた病躯のようであった。
唐突に背後から足音が聞こえてきた。畳のしなる音に土方は無意識に身体を強張らせた。
全神経を耳に集中させる。けれどそれも一瞬のこと。
「トシか」
「……近藤さん」
穏やかな声に振り返る。そこに近藤の姿を見止めて、土方は固くなっていた肩をゆっくりと下ろした。
なんとなく、近藤の気配だと察知はしていたのだけれど。
「眠れないのか」
「……酒が飲みたくなったんだよ」
グラスを顔の横まで運び、左右に揺らして見せる。琥珀色の液体がぴちゃりと跳ねた。
「風、強いよなァ」
「ああ」
窓に目線を遣った近藤の顔を土方は気づかれぬよう盗み見た。
ちょうど月に雲がかかってしまったのか、元より薄暗い三和土を一層闇に復してしまったので、近藤の表情は判然としない。残念だと思った。
細く息を吐き出し、グラスに口を付ける。それを見た近藤が「おお」と羨ましげな声を上げた。
「俺にもちょうだい」
「……そっちにあるから、勝手に注げよ」
「冷たいなァ、トシは」
唇を尖らせ、子どものように拗ねた顔つきをする近藤に、土方は苦笑いをする。そんな土方を一瞥した近藤が、まァいいか、と呟き土方へと一歩足を進めた。
なんだと問う前に土方の唇は近藤のそれと重なっていた。
ちょっとだけかさついたその感触に土方は抗うことを忘れ、力の抜けた手の中からグラスが床に落ちた。
ガラスの割れる音が鼓膜をつんざき、ようやく我に返ることができた。
「アンタな……ッ」
慌てて空いた腕を上げ、近藤の胸元を押し返す。
「いきなり何すんだよッ」
「何って、チュ、」
「あああもうッ!」
平然と口にしようとする近藤の言葉を遮ろうと、土方は声を上げた。
しかしそんな土方のささやかな抵抗も近藤は意に介さない。大きな手のひらが、土方の頭をやさしく撫でる。
「ヨシヨシ」
揶揄する言葉、けれど近藤の表情に揶揄いの色はまったく含まれていない。むしろ愛おしさを帯びた眼差しを土方へと向けてくる。
土方はその視線に耐えられず、所在なげに足元へ視線を落とした。
素足のつま先が濡れてしまっていた。冷たい。けれどそれと相反するように顔はひどく熱を持っていた。
(……このひとは、いつもこうだ)
翻弄させられてばかりいる。いつもいつも、振り回されているのは自分のほうだと土方は歯軋りした。
「アンタは俺のこと、ガキ扱いしてばっかりだ」
土方は怒ったふうに声を振り絞る。微塵も怒ってはいなかったけれど、そうでもしないと言葉を発することができなかったのだ。
「ンなことねえよ」
すぐさま否定の声が上がる。土方は瞠目して近藤を見やった。
「してないって」
相変わらず頭を撫でる手のひらは、土方を宥めるかのように温和に上下していた。
それに絆されてしまうのも悔しくはあったけれど、実際先刻までの胸騒ぎはなくなっていたので大人しく撫でられていることにする。
――正しく言えば、土方は近藤に触れられることが好きだったので。
不意に頭を撫でていた手に力が込められた。ぐ、と後頭部を圧迫する感触を受け、土方は必然的に上半身を前に倒さなければならなかった。
目の前にいる近藤の胸元に顔をうずめると、すぐに耳朶に唇が触れるほど近藤が身をかがめてきた。
「生まれてきてくれて、ありがとう」
囁かれた声は鼓膜に優しく響いた。
土方は泣きたくなったのを我慢して、素っ気なく「ああ」と頷いた。
気づけば風の音は止んでいた。聞こえるのは穏やかに揺れる木々の音と、耳元で動く心音のみ。
土方は近藤の背中にしがみ付くように腕を回し、青白い面貌に赤を乗せて「もう一度言って」と甘くねだった。
ハッピーバースデー
君に会えてよかったよ
20060505