近藤が屯所へ帰邸したのは、柔らかな光を帯びる太陽がちょうど空の真ん中に現れた時分のことだった。
 市街の見廻りを終えた近藤はその足で土方の部屋へと向かう。その足取りが軽やかなのは、何もこの春の陽気が心地好いからだけではない。
 途中ですれ違った山崎に土産のハーゲンダッツの袋を手渡す際、何気なく土方の所在を尋ねてみると、たぶん自室にいるのではないかという答えが返ってきた。 そうかありがとう、と言って立ち去ろうとした近藤は、山崎の手にバドミントンのラケットが握られていることに気がついた。
 確かこいつ、今は勤務時間中ではなかっただろうか。 思ったけれど、大のミントン好きな山崎が今日のような好天に恵まれた日にラケットを振り回すチャンスを逃すはずがない。 何より勤務中に嬉々としてアイスクリームを買った近藤に強いことは言えなかった。
 元より大らかな性格の近藤は、隊士たちの動向を寛大に見守る。 それはもちろん、常日頃の任務の成果があるからこそなのだが、それを良しとしない男もいた。 「アンタが甘すぎるから、アイツらは付け上がるんだ」と渋い顔を浮かべて煙草をふかす土方を思い浮かべ、近藤は苦笑した。 その表情は見慣れているから、思い浮かべることなど造作ないのだ。
 どうしたんですか。いやなんでもない、これだけもらう。 早々に山崎との会話を切り上げ、冷たいミニカップをふたつ受け取った近藤は、再び軋む廊下を歩み進んだ。
 先刻まで、氷菓の袋はふたつあった。ひとつは道すがら、偶然出会った――そう、偶然、だ――お妙にプレゼントをしたのだ。 お返しに拳ひとつ、頬に受けたけれど、それはもう挨拶のようなものになっていたので、近藤にとってはなんの傷にもならない。 実際、頬が腫れて唇の端が切れていたとしてもだ。
 土方にしてみればマヨネーズを差し入れることが何よりも喜ばしい土産だろうけれど、まあそこは甘んじて受け入れて欲しい。 冷たいアイスクリームは、初夏を先取りしたようなちょっと汗ばむ今日にはもってこいなのだから。
「トシー」
 部屋の前で声をかけるが、返事はない。けれども人の気配はあった。 きっちりと閉まった襖の中、シンと静まり返ってはいたけれど、なんとなく近藤にはわかった。
「どうしたンだろ」
 ひとりごち、控えめに襖を開ける。 もしかすると寝ているのかもしれないと思った矢先、日の光があまり入ることのない室内、こちらに背を向け机に伏せている人の姿が目に入った。
 思ったとおり、土方は居眠りをしているらしい。 近藤は手のひらにすっぽりと包み込んでいるカップのアイスクリームを握り直し、さてどうしようかと思いを巡らせた。
 視線を床畳に落とすと、そこには書類があちこちにばら撒かれている。 土方の背後から覗き見れば、眠っている彼の下敷きになって机に広がっているものも、びっしりと文字が敷き詰められた紙なのだとわかった。
 書類整理でもしていたのだろう、しかし彼は今日、オフのはずである。
 近藤は腰を折り、足元に散らばる紙の端を揃えて部屋の隅に置いた。 一緒にアイスカップもそちらへ押しやり、土方の斜め後ろにあぐらをかいた。
「ごめんなァ」
 頼りない局長だから、こうして土方の肩に余計な重荷がかかってしまっている。 それは重々自覚はしているのだが、頼りになる副長がいるからこそ、伸び伸びと局長という座に着いていられるのだ。
 近藤はまじまじと土方の背中を見つめ、そうっと手を伸ばした。その無意識の行動を制止させたのは、土方のくぐもった声だった。
「近藤、さん……」
 呼ばれ、なんだと返事をしようと口を開いた近藤は、唇を半開きにしたまま動きを止めた。 依然として眠る土方の閉じられた瞼に、光る滴を見つけたからだ。
 土方は眠ったままである。起きた様子はない。
 夢でも見ているのだろうか。
(……なんの、)
 自分が出演している夢か。もしかすると、無様に女性に殴られている夢かもしれない。 そんな愚鈍な思考に近藤は思わず自嘲を漏らす。そうではないとよく知っているのは、他でもない近藤自身だ。 土方の涙がそれを物語っている。
 近藤は伸ばしかけた手を引き、膝の上で拳を握り締めた。じわりと汗が滲むほど、握り込む。 厭な感触だったけれど、そうでもしないとこの手は自分の意思とは反して勝手な行動に出てしまうに違いなかった。
 近藤は背筋を伸ばし、細く息を吐き出した。 ふたりの他に誰もいないのかと錯覚してしまうほどに、屯所内は静かだった。いつものあの喧騒が今ではひどく懐かしい。
(やめてくれ)
 誰にともなく、そう懇願する。チラリと視界の隅に映った、白い襟足が憎く、そして愛おしいと思う。 疼く手のひらをゆっくりと開き、無理やりにその手をアイスカップへと向かわせる。 つたない所作でふたを開けると、わずかに溶けてしまっているアイスクリームが溢れ、ぽつりと畳を汚した。
「……ごめん、なァ」
 無骨な手で乱暴に畳を拭った近藤は、再度ため息を落とす。染みが広がってしまった。後できっと、土方に怒られてしまうことだろう。
 何に対しても不器用でしかないのだ。
 つまるところ土方の己への気持ちに気づいていながらもそれにきちんと応えてやれないのは、何故か。
(なんで、)
 何故、土方はこんなにも……。
 無限のループに近藤は苛まれていた。そしてそれは土方も同じだろう。
 うやむやに出来事を終わらせてしまうのは、近藤の性には合わない。
 近藤はカップを置き、先刻したように土方へと手を伸ばした。
 つまるところ、今近藤がしたいことといえば、土方のその白い肌に触れてみたい。そういうことなのだ。

うなじにキス


20060415