理不尽な眼球


 薄暗い場所だ。
 剥き出しの混凝土と分厚い鉄の扉で囲まれた四畳ほどの広さを持つ部屋は、季節に関係なく常に肌寒かった。
 窓はない。唯一の光源といえば、薄墨色の天井から吊るされた、ちかちかと目障りな点滅を繰り返す裸電球だけである。
 その寒々しい一室で、壁に背を預けて土方は座り込んでいた。
 もう何日この場所にいるのか、あまりよくおぼえていない。この空間には時間の動きを示すものが一切なかったので、時間すらわからないのだ。せめて窓があれば、昼夜くらいは判断できたというのに。
 もうすぐ時間だと、時計もないのに土方は漠然とそう思った。土方にとって、それが唯一、時の経過を知る術だった。
 土方が睨みつけた先にある扉の上部には、幅十センチほどの小窓がついていた。いまは閉じられているが、もうじきこの暗い空間と外とを結ぶその窓を開けに、ひとりの男がやって来るのだ。ここへやって来てからというもの、土方はその男としか出会っていない。
 ふと、それまでなんの物音もとらえなかった土方の耳朶に、リノリウムの床を革靴で踏みつける音が響いてきた。
 その足音はやがてこの牢屋の前で止まり、唐突に土方が睨みつけていた小窓が開かれた。扉の前に立てば、ちょうど目許だけが覗けるほどの大きさの窓だ。
「飯持ってきたぞ」
 窓から見える、切れ長の一重の目が言った。土方はその双眸をじっと見つめる。
 男は朝夕と二度、この牢獄へ足を運び、土方に食事を与える。
 初めこそ男に対して敵対心しか抱くことのできなかった土方だったが、いま男を見つめるその眼差しはだいぶやわらかいものになっていた。
 あくまでもそれは無意識だったので、自身では気づいていなかったのだけれど。
「置いておくぞ」
 小窓から男の姿が消え、今度は足許の低い窓が開き、そこから食器の並んだ盆が押しこまれた。
 麦の飯、味が薄く具のすくなめの野菜スープと玉子焼きがふたつ、微量の塩素の混じった水が本日の夕食だ。
 献立は時折パンと牛乳、油たっぷりの野菜炒めにかわるときもあった。まずいものであることにはかわりはなかったけれど。
 ふたたび小窓に現れた双眸が、土方を見据えた。
「喜べ」
「……なにが」
「またマヨネーズ、つけてやったんだからな」
 男の目が、笑みのかたちに曲がった。ひどく満足気であるのが、それだけで窺うことができる。
 玉子焼きの皿の傍らに盛られているマヨネーズを見やりながら、この男は奇特だと、土方は常々思っていたことをふたたび念頭に置いた。
 自分の立場を弁えていないのか、もしくはそういう性分なのだろうか――おそらく後者だろう――、男は囚人である土方に、食事を運んでくるたびに馴れ馴れしく話しかけてくるのだ。
 もう幾日前になるかは判然としないが、土方がここへやって来たばかりのころに、好物は何かと尋ねられた。隠すことでもない。正直に「マヨネーズだ」と答えてから、なんの魅力もない食膳にほぼ必ずといっていいほどマヨネーズが添えられるようになったのだ。
 彼曰く、「持参したマヨネーズをこっそり分けてやっている」らしいのだが、それならばいっそ容器ごと渡せとせびる土方に、「それはできん」と頭を縦に振ることはなかった。さすがにそこまでは許容する範囲ではないらしい。残念なことに。
「味気ねえ食事だが、好物があるとすこしはちがうだろう」
「味気ねえって思ってるんだったら、たまには豪華なモンでも食わせてくれよ」
 男が苦笑するのが気配でわかった。そして「それはできん」と、土方が予想したどおりの言葉を吐き出すのだった。
「こっそりアンタが作ってくるとか」
「う。……俺が作るのより、そっちのほうがいくらかマシだと思うぞ」
「なんだ、料理できねえのかよ」
「おむすびぐらいだったらできる!」
「……そんくらい誰でもできるだろうが」
 だが土方は、それでもこの男の作ったもののほうが、美味しく食べられるのではないだろうかと思った。
 このみすぼらしいだけの食事にはなんの感情も――たとえば愛情だとか――こもっていないのは明らかだが、この男が作ったものであればすこしは……などとどこかで何かを期待する気持ちがあったのかもしれない。
「なあトシ、今日は満月がきれいなんだ」
 土方は食膳から顔を上げ、男の顔――目許しか見えなかったが――に視線を戻した。
 男は、土方のことを『トシ』と呼ぶ。馴れ馴れしい男だと、はじめて呼ばれたときには違和感を覚えた土方だったが、思ったほど気に障ることではなかったので、そのまま訂正することもなく言わせておいたのだ。
 だが、呼ばれるたびに思う。立場を弁えろと。なぜ、こんな身分の己がそう危惧せねばならないのだろう。まったくもっておかしな話だ。
「おまえにも……」
 見せたい、とおそらくはそう続くだろう言葉を、しかし男は飲み込んだ。土方もそれ以上は言及しなかった。
(期待をさせるな)
 男に、こういうふうに言葉をかけられるたびに、土方の胸はにわかに痛み出す。
 男と話している時間は楽しかった。最初は煩わしいものでしかなかったが、彼が、裏表のない態度で己に接してくれるので、いつしかほだされてしまっていた。
 会話は他愛もない話題ばかりだったが、この薄暗い部屋で、独りでいるよりかは断然よかった。それだけの話だ。

* * *

 ある日土方がいつものように目を覚ますと、視界は真っ暗闇だった。一瞬、自分はまだ瞼を開けていないのだろうかと訝しんだが、絶えず鼓膜を弾いて止まなかった豆電球の点滅する音が聞こえなくなっていることに気がついて、そうでないはないと知る。どうやら、ついにあのぼろい豆電球は切れてしまったらしい。目をこすりながら起き上がる。
 本当の暗闇だった。何も見えない。聞こえない。土方の手は無意識に強く握られていた。視線は、無意識にあの扉の小窓へと寄せつけられる。壁にもたれ、はやく来い、と心のなかで念じる。
 厭な予感がしていた。胸騒ぎがする。落ち着かない。ここへ来てから、そんなふうに思ったことはなかったというのに。
 土方はひたすら願っていた。
 あの男にはやく会いたい。

* * *

 息をひそめ、まんじりとしていた土方は、扉の向こうから聞こえてくる足音を耳にした。だがそれは、いつものあの男の気配ではないように思えた。
 足音はこの囚人部屋の前で止まり、だしぬけに食膳用の窓が開かれた。だが上部の小窓は閉ざされたままだ。いつものように無下に盆を押しこめられ、ぴしゃんと金属音をたてて窓は閉まった。上部の小窓が開かれることはなかった。
 土方は、遠ざかる足音が完全に聞こえなくなってから、四つん這いになって盆を取りに行った。何も見えないので、手探りしながらそのありかを捜した。指先に触れた感触を頼りに、黙々と食事をはじめた。
 マヨネーズの添えられていない飯はいつもより味気ないもので、「まじいな」とつぶやく土方の声は、虚しく独房に響いただけだった。

* * *

 男がふたたび土方の前に姿を現したのは、あれから幾日かの夜を孤独に過ごしたあとのことだった。
 久しぶりに聞く、革靴がリノリウムの床にあたる音を聞いて、それまで横這いになってうずくまっていた土方はあわてて身を起こした。
 足音が、扉の向こうで止まる。土方はごくりと喉を鳴らした。
 すぐに開くかと思われた、扉上部の小窓はしかし土方が見やっていても開かなかった。
 ――あの男では、ないのだろうか。
 期待が不穏に曇った矢先、静かに小窓が開かれた。その場所から外の光を目にするのは、実に久方ぶりのことだった。
「……あれ、真っ暗」
 聞きなれた男のつぶやきを耳にしたとたん、土方は安堵に胸をなで下ろした。そうして、思いのほか彼を思慕していた己に改めて驚く。
 男は、目を細めてこの暗闇のなかをじっと見据えた。
「おーい、いるかァ?」
「……いる」
「あ」
 よかった、と男が笑う。土方はその声色を聞いて、なぜだか無性に泣きたくなった。
「電球切れてたんだな。まったく、いつからだ? いま、替えを持ってくるから」
 男の双眸が小窓から消え、土方は焦った。そのとき胸によぎったのは、不安だろうか。
「なんで……っ」
 身を乗り出し、思わず声を張りあげた。
「……うん?」
 男の目が小窓に露見した。土方の全身から力が抜ける。
「なんで、ずっと来なかったんだよ」
 この訊き方だと、まるで「来なかったからさみしかった」とでも言っているみたいに聞こえるかもしれない。
 我に返った土方は、羞恥からくちびるを噛みしめたけれど、男はそんな土方の恥じらいに気づいたようすもなく、言いにくそうに言葉を紡いだ。
「ばれちまったんだ」
 そう一言だけ言って、足許の窓から盆が押しやられる。土方は両方の窓から溢れる光源を頼りに、鉄の扉へと駆け寄った。
「なに、が」
 小窓が開いている間、いままでに土方がこの扉に近づくことはなかった。初めてだった。男の目を、間近で見つめることは。
 そうして、ようやく気づく。男の顔に、ちいさな裂傷が幾つも見受けられるのを。
 小窓から覗いて見やれば、男の目尻や口許にはちいさなガーゼが貼られていた。
「どうしたんだよ、それ」
「なんでもねえよ」
「なんでもなくねえ。言えよ」
「言わない」
「おい」
 土方が言及すると、男は困ったふうに笑い、頭を乱暴にかいた。
「おまえの、好物を差し入れてんの、ちっとばれちまっただけだ」
 まあ謹慎ってやつ。男はなんでもないふうに軽い口調で続け、電球取りに行ってくると言い残して去って行った。
「……ばかだな」
 吐息をこぼすよう、土方は囁いた。
 胸が、苦しかった。締めつけられるような痛みに、土方は気づいてしまった。
 あの男が好きだと。
 真っ暗闇のなかで立ち尽くしながら、場違いな心の温かさを感じ、土方は涙をこぼさぬようくちびるを噛みしめた。





* * *

 今日も男はやって来る。土方のようすを窺い、やさしく笑んで、食事を運びにやって来る。
 扉にもたれかかるように座り込んでいた土方は、小窓が開くなり立ち上がった。驚いたふうに目を見開く男をキッと見据えると、ちいさく息を吸い込む。
「なア」
「ん、ああ」
「アンタの名前、訊いてもいい」
 彼は看守。
 自分は囚人。
 置かれている立場は重々承知している。だが、先に仕掛けてきたのは彼のほうだ。
 男は、真ん丸くしていた目をやわらかく細めて笑んでみせた。
「はじめておまえから話しかけてくれたな」
 破顔する男につられるように、土方も顔を綻ばせた。


ある看守と囚人のはなし

20070224