032:もう二度と
 もう二度と触れないと誓った矢先のことだった。

 今、江戸では風邪が流行しており、そこかしこに悪性のウィルスが蔓延していた。例に漏れず、真選組屯所内でも、病を訴える者が後を絶たなかった。
 朝方のミーティングの際、「皆も気をつけるように」と病とは無関係な晴れやかな表情をしていた近藤もまた、市中の見廻りを追え帰ってきたころには、朝の面影は消え去っており、すっかり具合の悪そうな顔をしていた。
「まったく、どこで拾ってきたンだか」
 呆れたふうに言い放つ土方に、布団に潜り込んだ近藤は曖昧な笑みをこぼすのみだった。すなわち、かの女の元へ行ったのが原因なのではないだろうかと土方は邪推した。
 先日近藤から、「風邪をひいたらしいんだ」と聞きたくもない情報を耳に入れられていたことを思い出す。それが事実であるかどうかは土方には興味がないし、また当の本人は寝込んでしまっているので与り知れぬことだった。
「……ゆっくり寝てろよ」
 気づけば近藤はちいさく寝息をたてて眠ってしまっている。声を忍ばせ、そうっと手を伸ばした土方は、それをぴたりと宙で止めた。至って無意識の行動だった。
 いけないと自分自身で叱咤し、慌てて手を引いて立ち上がる。
「――トシ」
「うん?」
 振り向いた土方は、あいかわらず寝入ったままの近藤の姿を認めて、苦笑をこぼした。
「眠ってる人間と会話すると、魂持ってかれるっつー話だぜ」
 やめてくれよと笑った土方は、不意に口を噤んで近藤を凝視した。
「……呼ぶなよ」
 寝言で、自分の名前を? いや、まさか。どうせくだらない夢を見ているにちがいない。早合点してひとりで心臓をざわつかせるなんて、どうせ徒労に終わるに決まっている。土方は唇を噛み締め、そう自分に言い聞かせた。
 彼の、自分を呼ぶ声が好きだった。やさしい声色は、ことさら土方の鼓膜を刺激し、心を奪った。そう、馬鹿げた決意など、簡単に吹き飛ばしてしまうほどに。
 ――もう二度と、触れまいと誓ったはずなのに。
 ふたたび伸ばした指先は、もう迷いのかけらも見せずに、一途に近藤の頬に触れた。


06.08.11